善明寺

宗祖親鸞聖人について
~ そのご生涯 ~

1. 誕生

親鸞聖人は承安じょうあん三年(1173)宇治に近い日野の里で誕生されました。
父は日野ありのりという公家で、母は源氏の流れをくむ吉光女きっこうにょであったと伝えられている。

2.お生まれの時代

そのころは、平家にあらずば人にあらずといわれていたほどに、平家全盛の時代でしたが、その平家も源氏との争いで滅んでいます。
世の中は、栄耀えいよう栄華えいがおぼ、力をなくした貴族に代わり、武士が実権をにぎる武家社会へと大きく変わろうとしていました。

また、その様子を『方丈記』にて伝えられているように、京の町はうち続く戦乱によってすっかり荒廃し、そのうえ地震や大火があいつぎ、さらに飢きんや疫病えきびょうによって都には死体があふれ、まさに五濁ごじょくあくすがたを呈していました。

3.得度

養和ようわ元年(1181)親鸞聖人は、9歳の時、しょう蓮院れんいんにおいて後の天台座主慈円(ちん和尚かしょう)の元で出家得度されたのでした。
他のご兄弟も次々と出家されていることから、当時のきびしい事情がうかがえます。

4.修行

はんねんという法名をいただかれ聖人は比叡山に上り、迷いを離れるための修行と学問に励まれます。

聖人の比叡山での修行については詳しくはわからないのですが、聖人の妻であった恵信尼さまの手紙が発見されたことで、「殿の比叡の山に堂僧つとめおはしける」とあって山では不断念仏の堂僧であったとうかがえる。

聖人は天台宗の学問のみならず、奈良法隆寺等に出かけ仏教の基礎となる学問をも学び、日頃から尊いしたわれている聖徳太子の御廟に参籠され、聖徳太子より「夢告むこく」を受けられています。

5.出遭い

百日の参籠さんろうを誓って親鸞聖人は六角堂へと通われ、自身の救われる道を求めてゆかれます。

その95日目の暁、親鸞聖人は救世観音(聖徳太子)の夢告をお受けになります。

「行者宿報説女犯 我成玉女身彼犯 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽」

これはこれ我が誓願なり、善信この誓願の旨趣を宣説して、一生群生にきかしむべし この夢告は、妻を持ち、子を伴うような日常生活の中にこそ、真の仏道があるのだということを、明らかに告げているのです。

聖人はこの夢告に大きな示唆を得て、聖人をその頃、東山吉水の血で、男女老小の区別なく、すべての人々に「ただ念仏」の教えを説いておられた法然上人のもとを訪ねられるのです。

そして29歳のとき、ついに聖人は「ただ念仏して弥陀にたすけまいらすべし」という法然上人の仰せによって、阿弥陀仏の本願に出遭われたのです。

6.承元の法難

当時、法然上人のもとには、貴族をはじめ、一般の庶民から遊女・盗賊にいたるまで、あらゆる階層の人々が集い、世俗的な身分や職業、僧侶、老若、男女の区別を超えて、ともに浄土を願って生きる道を歩む僧伽さんがを形成されていました。

念仏教団の興隆を心よく思わない延暦寺や興福寺などの旧仏教の僧侶たちは、ことあるごとに迫害と弾圧を加えてきました。

建永元年(1206)十二月、御所の女官がそろって法然上人門下の念仏門に加わったことが、後鳥羽上皇の怒りにふれ、翌年の承元(1207)二月、ついに専修念仏停止の命令が下され、住蓮房以下四人が死罪に、法然上人以下七人が流罪に処せられました。

法然上人は土佐国番田へ(御年五十二歳)、親鸞聖人は越後国(現、新潟県上越市)へ(御年三十六歳)遠流となりました。これを機に、親鸞聖人は『愚禿釋親鸞』と名乗り、非僧非俗の生活に入る。

7.肉食妻帯

不当な弾圧を受けて配所の地、越後の国府に向かわれた聖人を待っていたものは、荒涼たる厳しい自然と、富や権力とはまったく無縁の人々でした。

この越後の国において、聖人は奥方恵心尼公との間に幾人かのお子さまを授かっておられます。

 

越後流罪は聖人にとって、たんなる逆境ではありませんでした。

法然上人との出遭いによって受けた念仏の教えを、自らの生活の上に実証していく、またとないご縁となったのです。

8.布教

越後に流されて五年、建暦元年(1211)十一月十七日、親鸞聖人は師法然上人 とともに順徳天皇より赦免を受けられました。


建暦2年(1212)、親鸞聖人は帰洛の途につかれますが、聖人の帰洛をまたずに師法然上人は一月二十五日、九十歳で京都において入滅されます。


上人の墓参りと赦免のごあいさつを済まされた聖人は、山科の地に小さなお堂を建立されていますが、これが佛光寺の草創となります。


このあと、愚禿の名のりにおいて、名実ともに念仏の行者となられた親鸞聖人は、布教活動の場を新興の地、関東に求められたのです。


それから約二十年間、聖人は常陸の国稲田を本拠地として布教伝道に専念されました。


その布教活動に一貫して流れていたものは、「如来の教法を我も信じ、人にも教え聞かしむるばかりなり」という自信教人信の精神であり、「親鸞は弟子一人をもたずそうろう」という御同行御同朋の姿勢でありました。

9.帰洛

関東における聖人の二十年に及ぶ布教活動によって、念仏門はいよいよ盛んとなりました。親鸞聖人は、63歳のときお弟子たちと別れて、住みなれた稲田の禅房を後に、京の都へと向かわれました。

親鸞聖人は、京都へ帰られてから、関東においてすでに書き始めておられた『顕浄土真実教行証文類』を完成され、その後の生活をもっぱら著作にささげられたのです。

 

・ 寛元5年(1247)、75歳の頃に『教行信証』を完成したとされる。

・ 宝治2年(1248)、『浄土和讃』と『高僧和讃』を撰述する。

・ 建長2年(1250)、『唯信鈔文意』を撰述する。

・ 建長4年(1252)、『浄土文類聚鈔』を撰述する。

・ 建長7年(1255)、『尊号真像銘文』、『浄土三経往生文類』、『愚禿鈔』、『皇太子聖徳奉讃』を撰述する。

・ 建長8年(1256)、『入出二門偈頌文』を撰述する。同年5月29日付の手紙で、東国にて異義異端を説いた実子善鸞を義絶する。

・ 康元元年(1256)、『如来二種回向文』(往相回向還相回向文類)を撰述する。

・ 康元2年(1257)、『一念多念文意』、『大日本国粟散王聖徳太子奉讃』を撰述し、『浄土三経往生文類』を転写する。

・ 正嘉2年(1258)、『尊号真像銘文』『正像末和讃』を撰述する。

 

聖人が京都に帰られてからのち、関東では幕府における弾圧や他宗の念仏批判があいつぎ、お同行の間に信仰上の動揺が広がりました。そこで聖人は子息善鸞をご自身の名代として関東へ送られ、その動揺を鎮めようとされました。

 

ところが、その善鸞は、かえって有力門弟と対立するようになり、自分だけは内密に父の親鸞聖人から本当の救いの道を聞いている(秘事法門)と言い出したのです。

そのため関東の教団は大混乱におちいり、事情を知った聖人は、八十四歳のとき、ついにわが子善鸞を義絶(勘当)することとなりました。

10.往生

弘長二年(1262年)11月28日、弟の尋有僧都の「善法房」にて享年90歳をもってお浄土に往生されました。


聖人は愚禿の名のもとに本願念仏の仏道をただ一筋に歩まれ、九十年の生涯を閉じられました。

その歩みは、如来大悲の恩徳を讃嘆した多くの言葉となって、今日生きつづけ、私の歩むべき道をさし示してくださっています。

=本山佛光寺「門徒手帳」より引用=