・ 宗 派 名 真 宗 佛 光 寺 派
・ 寺 院 名 渋 谷 山 佛 光 寺 (URL : https://www.bukkoji.or.jp/)
・ 所 在 地 〒600-8084 京都市下京区新開町397
・ 所依の経典 浄土三部経
( 佛説大無量寿経 佛説観無量寿経 佛説阿弥陀経 )
・ 佛光寺草創
越後へ流罪に遭われた親鸞聖人は、ご赦免の翌年建暦2年(1212)に京都に帰られ、山科の地に草庵を結ばれました。
この草庵が佛光寺草創と伝えられています。
当初は、真宗開闢の根本道場を意味して「興隆正法寺」と号しました。
・中興了源(りょうげん)上人
親鸞聖人在世の当時、真宗の教えは関東を中心に広がりをみせていましたが、第七世了源上人になって、教化活動の拠点を旧仏教の盛んな京都に置き、光明本尊・絵系図・交名帳を用いて西日本一帯の布教活動に力を入れました。
戦前の世にあって、人々は風になびく草木のごとく上人のお徳を慕って念仏申すようになり、元応2年(1320)には、寺基を山科から今比叡汁谷(現・京都国立博物館あたり)に移しました。
建武2年(1335)12月8日、教化の途上、伊賀(三重県)の七里峠において賊徒に襲われ、正法流布のご生涯を閉じられたのですが、その死に臨んで自己を殺めんとする者に対して、「この者を罪することなかれ、回心の気あり、よく後生を教ゆべし。」と、お諭しになりました。
時に上人42歳でした。
了源上人は、わが国で初めて真宗教団を組織され、念佛不毛の地を耕されたお方で、佛光寺のみならず真宗教団の中興の祖といっても過言ではありません。
・聞法に生きる教団
寺基を洛中東山に移し、後醍醐天皇から寺号を賜った佛光寺は益々隆盛となりましたが、同時に延暦寺の弾圧が強まり、応仁の乱を境に寺勢は次第に衰え、代わって本願寺が台頭するところとなりました。
天正14年(1586)には、豊臣秀吉の懇請により、寺基を現在地に移しました。
京都の中心部に移転して四百年余り、その間にも多くの法難に見舞われましたが、門末の念仏相続のご懇念によって佛光寺の法灯は守り継がれてきました。
こうした伝統を踏まえ、本山では「深きいのちにめざめ一切を拝める人になろう。」をテーマに、混迷する現代社会にあって、お念仏の大地に根ざした真の人間の誕生を目指して活動しています。
・教団の使命
苦しみ悩み迷うことの原因を、自分の外に探しても、一時的な解決にしかなりません。悩みの因を他に求めても、現に悩んでいるのは自分自身なのです。
ですから一つ解決しても、また次から次へと苦悩が起きます。
苦悩を起こす自分自身に目を向けなければ本当の意味で解決はありえません。
この自分自身を問題とし、自分の在り方を映し出してくれる教えを「仏教」といいます。
今まで気づかなかった自分に出会い、自分に戴いているいのちの尊さに目覚めるお教えです。
今から2500年程前インドに生まれられたお釈迦さまは、生まれ 変わり死に変わりを信じる人々に、一度きりの人生を、限られた 時間に、他と較べることなく輝いて生きることを説かれました。
お釈迦さまの言葉に頷(うなづ)かれた人々は、お釈迦さまが亡くなられた後もその教えを口から口へと受け継ぎ広めていく中で、やがて「何時でも、何処でも、誰でも」が輝いて生きる道を大乗(だいじょう)と呼ぶようになりました。
それは、たとえお釈迦さま在世から時が過ぎて時代が変わろうとも、『み教えがあれば必ず救われる。』 つまり、“ 必ず輝いて生きられる” という多くの人々の体験から生まれたのです。
その教えは、大乗の至極といわれる浄土三部経として編纂されました。
中国から朝鮮を経てわが国に伝えられたお釈迦さまの教えは、鎌倉 時代に法然上人・親鸞聖人によって浄土真宗( 浄土を真実の拠り所として生きる。 )として実を結びました。
親鸞聖人は、お釈迦さまがこの世にお出ましになったのは、個人の能力・体力・財力等にかかわらず、必ず救われるという阿弥陀佛の無条件の救済を説くためであると言い切られました。
20年に及ぶ比叡山での修行を断腸の思いで捨てられた親鸞聖人は、法然上人によって見開かれた、人間の生きる事実に立つという眼をもって念仏一筋にその生涯を終えられました。
佛光寺教団の使命は、親鸞聖人によって実証された、『 生き生きと、生きるという念仏往生の、誰でもが歩める大道を、自ら歩み、また人に勧めること 』にあります。