不当な弾圧を受けて配所の地、越後の国府に向かわれた聖人を待っていたものは、荒涼たる厳しい自然と、富や権力とはまったく無縁の人々でした。
この越後の国において、聖人は奥方恵心尼公との間に幾人かのお子さまを授かっておられます。
越後流罪は聖人にとって、たんなる逆境ではありませんでした。
法然上人との出遭いによって受けた念仏の教えを、自らの生活の上に実証していく、またとないご縁となったのです。
越後に流されて五年、建暦元年(1211)十一月十七日、親鸞聖人は師法然上人 とともに順徳天皇より赦免を受けられました。
建暦2年(1212)、親鸞聖人は帰洛の途につかれますが、聖人の帰洛をまたずに師法然上人は一月二十五日、九十歳で京都において入滅されます。
上人の墓参りと赦免のごあいさつを済まされた聖人は、山科の地に小さなお堂を建立されていますが、これが佛光寺の草創となります。
このあと、愚禿の名のりにおいて、名実ともに念仏の行者となられた親鸞聖人は、布教活動の場を新興の地、関東に求められたのです。
それから約二十年間、聖人は常陸の国稲田を本拠地として布教伝道に専念されました。
その布教活動に一貫して流れていたものは、「如来の教法を我も信じ、人にも教え聞かしむるばかりなり」という自信教人信の精神であり、「親鸞は弟子一人をもたずそうろう」という御同行御同朋の姿勢でありました。
関東における聖人の二十年に及ぶ布教活動によって、念仏門はいよいよ盛んとなりました。親鸞聖人は、63歳のときお弟子たちと別れて、住みなれた稲田の禅房を後に、京の都へと向かわれました。
親鸞聖人は、京都へ帰られてから、関東においてすでに書き始めておられた『顕浄土真実教行証文類』を完成され、その後の生活をもっぱら著作にささげられたのです。
・ 寛元5年(1247)、75歳の頃に『教行信証』を完成したとされる。
・ 宝治2年(1248)、『浄土和讃』と『高僧和讃』を撰述する。
・ 建長2年(1250)、『唯信鈔文意』を撰述する。
・ 建長4年(1252)、『浄土文類聚鈔』を撰述する。
・ 建長7年(1255)、『尊号真像銘文』、『浄土三経往生文類』、『愚禿鈔』、『皇太子聖徳奉讃』を撰述する。
・ 建長8年(1256)、『入出二門偈頌文』を撰述する。同年5月29日付の手紙で、東国にて異義異端を説いた実子善鸞を義絶する。
・ 康元元年(1256)、『如来二種回向文』(往相回向還相回向文類)を撰述する。
・ 康元2年(1257)、『一念多念文意』、『大日本国粟散王聖徳太子奉讃』を撰述し、『浄土三経往生文類』を転写する。
・ 正嘉2年(1258)、『尊号真像銘文』『正像末和讃』を撰述する。
聖人が京都に帰られてからのち、関東では幕府における弾圧や他宗の念仏批判があいつぎ、お同行の間に信仰上の動揺が広がりました。そこで聖人は子息善鸞をご自身の名代として関東へ送られ、その動揺を鎮めようとされました。
ところが、その善鸞は、かえって有力門弟と対立するようになり、自分だけは内密に父の親鸞聖人から本当の救いの道を聞いている(秘事法門)と言い出したのです。
そのため関東の教団は大混乱におちいり、事情を知った聖人は、八十四歳のとき、ついにわが子善鸞を義絶(勘当)することとなりました。
弘長二年(1262年)11月28日、弟の尋有僧都の「善法房」にて享年90歳をもってお浄土に往生されました。
聖人は愚禿の名のもとに本願念仏の仏道をただ一筋に歩まれ、九十年の生涯を閉じられました。
その歩みは、如来大悲の恩徳を讃嘆した多くの言葉となって、今日生きつづけ、私の歩むべき道をさし示してくださっています。